スポンサーリンク

一日一生、毎日に区切りをつける

意識が途絶えるという意味で、「眠り」も「永遠の眠り」も似たような感覚に思えます。

次の日に、目覚めるのか、そのまま目覚めないかの違いだからです。

いつ眠りに入ったのかは、自分では決して分かりません。

眠気とともに、記憶が時間軸を無視してあべこべに交差していき、夢と現実の間を行ったり来たりします。

この状態のときに、話しかけられると、意味不明な返答をして、自分でもびっくりすることがあります。

寝入りの瞬間は、記憶にアクセスしていた電気信号のスイッチを、一つずつ消していくように、意識が薄れていくので、寝入りの瞬間を「ここだ!」と特定できません。

起きたときに初めて、「あれ? いつの間にか寝てたんだ」と認識することができるだけです。

同じように、永遠の眠りも、夢うつつを彷徨いながら、いつの間にか意識が遠のいて、自分では認識できないんだろうなという気もしています。

つまり、永遠の眠りへ入るときも、毎日の睡眠時に出てくる眠気のような脳内物質が出てきて、まどろむような心地よい感覚なのではないかと想像しています。

毎晩、『睡眠』という『永遠の眠りの疑似体験』をしているとすれば、一日が「小さな人生」そのもの。

すると、夜に眠る時間が近づくにつれて、

“ 今日、満足のいく一日を過ごせたかな? ”

と、自問自答するきっかけにもなります。

“ いい一日だったな ” と思えたら、心置きなく眠れます。

翌朝の目覚めは、「小さな誕生」。

一日一生。

それは、永遠の眠りの前に、“ いい人生だったな ” と思えるのと、同じ感覚のような気がしています。

なぜなら、人生は、今日という「一日」「一日」をすべて足し合わせたものだからです。

西洋にも、メメント・モリという言葉があります。

「自分にもいつか必ず最期が来るということを忘れるな」という意味で、「今日を大切に生きよ」「今を楽しめ」というようなメッセージ。

それがいつかは分からないからこそ、今この瞬間を大切にできて、今日一日を満足させていける。

もし、永遠に生きられるとしたら、満足の先延ばしをしてしまいそうな気がします。

繰り返しの「今日」を満足するためには、ほんの少しの時間でいいので、「自分のための時間」をできるだけ持つようにしていきます。

そんな、一人で過ごす自分だけの時間は『me time』とも呼ばれています。

リラックスするために、一人で好きなことをして過ごす「自分へのご褒美」のような時間です。

大好きなスイーツを食べながら読書をしたり、美しい夕焼けをボーっと眺めながらココアを飲んだり、アロマの香りに包まれながらバスタイムを楽しんだり、間接照明の薄明りの中でジャズを聞きながらワインを味わったり、プチ贅沢を楽しんだり・・・。

「ひとり時間」は、自分と向き合う時間です。

自分の内面と深くつながり、自分を知る大切な時間でもあります。

“ いろいろあったけど、今日もいい日だったな ” と、眠る前に感じられるように、「今日」を大切に過ごしていく。

それが、「今日」の集合体である「人生」を大切にすることになり、“ いろいろあったけど、いい人生だったな ” と満足できる瞬間につながっているような気がしています。