『繰り返しの日常』を、テレビを見るように受け流すのか、本を読むように味わうのか

テレビで流れてくる映像のように、日常の出来事や風景も、勝手に流れて私たちの目に映っています。

そんな「繰り返しの日常」を、テレビを見るかのように、流れてくる情報にただ受け身でいるのか。

それとも、本を読むかのように、情報を読み解き、能動的に味わうのか。

流れてくる「日常の出来事や風景」を、受け身で見てしまうと、本能が刺激されるものだけに注意を向けるようになってしまいます。

考える隙を与えないかのごとく間髪入れずに流される刺激的な音と映像のCMや、私たちの心を捕らえて離さない高視聴率番組に慣れてしまうと、よほど非日常で魅力的な出来事が起こらないと、満足感を得られなくなり、そんな刺激をずっと待ち続けることになってしまいます。

そして、満足は与えてくれるものという受け身の姿勢では、自分に興味のない番組が始まると、とたんに退屈を感じて、おもしろい番組のチャンネルを探し求めて彷徨ってしまいます。

日常も、満足は与えてくれるものという受け身の姿勢でいると、刺激的な出来事が起こらないと、とたんに退屈を感じて、充実感を得られないばかりか、虚無感にとらわれます。

一方、日常の出来事や風景を、本を読むように味わうと、同じ毎日の繰り返しだと思っていた日常の中に新たな意味を見出したり、一つのシーンから様々な想像を巡らせて、知的好奇心を満足させる刺激を自ら作り出すことができます。

ちなみに、本は自分で能動的に活字を読み進めて情報を得ていくので、思いに耽ったり、じっくり考えている間は、何も言わずに静かに待ってくれる良き相棒です。

たくさんの本を読めば読むほど、空想の幅は広がって、ワクワクした世界を自由に無限につくっていくことができるのです。

日常も同じです。

繰り返しの日常に「ワクワク」できるかどうかは、刺激的な映像を流してくれるのを待つのではなく、一つのシーンを切り取って、行間から何かを感じ取るようにじっくり味わい、心のスクリーンに「自分が」何をどう映すかにかかっています。

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