『集団』を知るまでは、『孤独』という感覚はなく、自然と戯れ、本で世界を知り、自己と対話しながら未知の探求していく時間は、かけがえのないもの。
いつしか、『集団』を知ることで、『孤独』という認識が浮かび上がり、みんなに合わせないことや、自分のままでいることは “ はみ出している、ひとりぼっち ” という言葉が自分の中に生まれます。
また、映画やドラマなどでも、クリスマスなどの特別な日は、誰かと一緒にいることが前提のストーリーが多いです。
そして、クリスマスまでに恋人をつくろうとする若者や、クリスマスに予定がないことをさみしく感じるように描写することで、ひとりでいることを孤独だと、そう感じさせるような印象がつくられます。
すると、「孤独」という言葉は、さらに確固たるものとして存在感を増していき、「誰かと一緒にいることがあたりまえ」「一人はさみしい」というイメージが強くなっていきます。
つまり、孤独感は、「みんなは一人で過ごさない」ということを知り、それが多数派であると認識して初めて感じるもので、それを知るまでは「一人でいることがマイノリティ」とは思いもよりません。
それはまるで、自分はなんとも思っていなかったことが、誰かに指摘されることで、初めてみんなとの違いを知って意識するようになり、コンプレックスとなってしまう現象に似ているような気がします。
幼い頃は、「集団と個」という二元論の認識がないので、自分の中に、まだ「孤独」という言葉は生まれていません。
「親がかまってくれない」とか、「遊び相手がいればもっと楽しいのにな」と思うことはあっても、「個」のまま、「あるがまま」の自分でいることに、なんの違和感もないではないかと思います。
成長する過程で、学校という組織に属するようになることで、「集団」の中の「自分」という位置づけをするようになり、周囲の影響を受けていきます。
「みんなはどう思うだろう?」
「これを好きと言ったら変に思われるから、こっちを選ぼう」
など、 “ 自分が感じること ” ではなく、“ みんなが感じること ” を優先していきます。
次第に、集団の中から、はみ出さないための考え方になっていきます。
- みんながこうしているから、自分もこうする
- 誰かと一緒にいないとさみしい
- 似ているグループに入っていれば安心
など、 “ みんな ” の影響を受けすぎると、
「自分は本当はどうしたいのか」
「何が好きだったのか」
が、だんだんと分からなくなっていきます。
すると、「みんなと一緒にいても孤独を感じる」というジレンマに陥ります。
自分の本当の気持ちを無視してみんなと一緒にいても、 “ 分かり合えているという感覚が得られない ” ので、自分の心は満たされないからです。
孤独感は、「集団と個」という二元論の認識がつくりだす幻想。
そして、たとえみんなと一緒にいても、自分の本当の気持ちが分からなくなればどっちにしても孤独。
だとすれば、みんなと一緒にいるのか一人でいるのかではなく、“ 本来の自分を見つめなおすことが大事 ” ということになります。
自分の感情を尊重していくことで、孤独という言葉に対して、「誰かと一緒にいないと不安でさみしい」という認識から、「ひとりでいる時間も楽しくて尊い」という認識になっていきます。
本来の自分を知るには、幼い頃は「何に夢中になっていたのか」を思い出すことにヒントがあるような気がします。
たとえば、
- 知らない道を散策するのが好き
- 寝る前に、絵本を読んでもらうのが好き
- 文字を覚えることが好き
- 絵合わせ遊びが好き
など、「そういえば、子供の頃はこういうことが好きたっだな」「こんなことに熱中していたな」など自分の感覚を探究していきます。
この、自分の “ 好き ” に没入している時間は、孤独感はありません。
たとえば、自分が大好きなおいしいものを食べているときは、たとえ一人であっても、味わうことに一生懸命だからです。
BGMを流していても聞こえていないくらい、食材の色、噛む音、舌触り、匂い、手に持った感触などに集中しています。
このように、何か自分の好きなことに熱中している時間は、孤独とは無縁の至福のひとり時間。
本来の自分に向き合うために、
- 誰かと一緒に過ごしているときの自分
- 集団の中にいるときの自分
- ひとりでいるときの自分
など、「それぞれのときの自分の感情」を観察しながら、みんながどう感じるかを気にするのではなく、 “ 自分がどう感じているのか ” という自分の本当の気持ちに意識を向けることも大切にしていきたいと思っています。