傍から見ると、“ ひとり ” に見えるだけで、内面では「自分と対話」しているので、実質 “ ふたり ” なようなものです。
ひとりの時間は、ひとりぼっちで語る相手が誰もいないのではありません。
ひとりの時間は、「自分」という「語る相手」がいるのです。
本当のひとりぼっちは、 ひとりでいる時間に、内面の自分の声を無視して、自分と語ろうとしない状態。
それでは、 傍から見てもひとり、内面でもひとり。
そして、「ひとりを感じたくない」と思って、『内側』で待っている「自分という語る相手」がいるにも関わらず、メール、電話、SNSで、『外側』に語る相手を探しにいきます。
通勤時間や、待ち合わせの時間などの、ちょっとしたひとり時間も、スマホを見て、 “ 誰かの意見と対話 ” します。
せっかく、ひとりで過ごす時間ができたとしても、「自分が考えること」や「自分の気持ち」に関心を向けずに、スマホやテレビを見て「誰かが考えてること」や「誰かの気持ち」の方が気になっていることがしょっちゅうです。
気がつけば「誰かの意見」に反応し、「誰かの気持ち」に共感し、いつも「誰かのなにか」に夢中。
そうなると、四六時中、自分と対話する時間がどこにもないことになってしまいます。
現代は、いつでも誰かとつながることが簡単にできてしまう便利な時代です。
暇さえあればすぐにスマホを手に取って、
- 誰かの発信を見て聞いて
- 反応する
という、“ いつも「誰かと対話」している ” 状態に、自然となっていきます。
問題なのは、この状態が長く続くと、本当の自分の気持ちが分からなくなってしまうことです。
自分が本当にやりたいことも分からなくなります。
自分を見失うということです。
なぜなら、「自分と対話」して初めて自分の心の声が分かるからです。
自分の本当の気持ちが分からない状態で、たとえ誰かと一緒にいても、上辺の会話になってしまいます。
みんなと一緒にいるはずのに、自分を分かってもらえていないような気がすると、孤独感もあらわれます。
自分の心の声を無視した会話では、個性は押し殺され、当たり障りのない薄っぺらい言葉しか出てきにくくなってしまう上に、孤独感もぬぐえません。
ひとりぼっち回避を、 “ 誰かのなにか ” に依存していては、表面上は一瞬満たされたように思えても、心の底はずっと満たされません。
- 誰かといる時は、真剣に「相手と対話」する
- ひとりでいる時は、真剣に「自分と対話」する
どちらも必要です。
そして、真剣に「相手と対話」するためには “ まず、己を知る ” です。
己を知ることで、表面上の返答をしなくなるので、誠実に相手と対話することにもなっていきます。
己を知ることで、相手とも “ 心のこもった対話 ” が生まれます。
内側にいる自分という存在も、一人の「ひと」です。
ひとりでいる時間も、“ 実質ふたり ” だと思えるのは、内側にいる自分の存在も「一人のひと」として認識するからです。
見えないけど、ちゃんとそこにいます。
自分の内側にある「ひとの存在」が、自分自身であり、自分の本当の気持ちを知っていて、自分の本当にやりたいことも知っています。
自分の中に、“ 自分という一人の「ひと」” がいることを受け入れて、その存在を認め、尊重していく。
それが、“ 自分を大切にすること ” につながるような気がしています。
その存在に無関心でいたり、決して無視したりしません。
自分を見失わないためにも、「自分」と語り、自分の心の声を聞いていく時間は、大切に感じます。