『家事』は、快適な暮らしの「維持」そのものです。
- 定期的に掃除されている心地よい家の中
- いつも片づいた部屋
- 綺麗に花が植えられた庭
- 美味しいごはん
- 冷蔵庫を開けると冷たいお茶とビールがストックされてある
- タンスの引き出しを開けると入っている「たたまれた服」
- クローゼットを開ければかかっているアイロンがけされたシャツ
これらの「快適さ」は、勝手に地面から生えてくるわけではありません。
そのように「保つ」という働きかけをしている努力のたまものです。
埃を払ったり、水をやったり、買い出しに行ったり、洗濯して干したり・・・
もし、家事の一切を放棄して、誰も何もしなければ、家の中は、誇りまみれでカビ臭くなってしまいます。
ところが、それを享受する側は、“ その快適さが「維持」されているというありがたさ ” には、なかなか気づけないもの。
なぜなら、同じ状態が続くことによって、変化を感じにくいからです。
「変化を感じない」ので、脳が慣れてしまい、「あたりまえだと認識してしまう」のです。
「維持」自体が、“ 変化しないように同じ状態を保ち続けること ” なので、変化を感じないとすれば、目的達成です。
しかし、誰かの努力によって、「保たれている状態」なのに、それを受け取る側からすると「変化を感じないがゆえに、ありがたさも感じにくい」というすれ違いが起こります。
たとえば、暮らしの中を見渡してみても、
- 食べ物の安定した供給
- 便利に暮らせる生活インフラの整備
- 街路樹や公園などの心地よい街づくり
など、日常生活の「便利さ」や「快適さ」が、常に “ 保たれている状態にある ” ということに気づきます。
スーパーに行けば、「食べ物が買える」という毎日の光景は、食材を育てて、運送して、陳列して、販売してくれて・・・と、みんなが流通システムを「維持」してくれているおかげ。
“ この環境が「維持」されていることは、ありがたいことなんだ ” と、その「背景」を思い出すことで、その都度、感謝の気持ちが湧いてきます。
ありがたいと感じる「感覚」は、しあわせ感覚でもあります。
快適さや、便利さを「維持」することは、「同じ状態を保ち続ける」ための “ 時間と作業 ” を要します。
ディズニーランドや、羽田空港のトイレを思い浮かべると、“ いつも ” 快適で清潔です。
毎日、変化を感じさせないくらいに、快適さを保ち続けることは、並大抵のことではありません。
家事も、同様です。
そう思うと、普段、何気なくしている家事のひとつひとつが、大切に思えてきました。
毎日のように「同じこと」を繰り返す「家事」は、
「家の中が快適で清潔に保たれる」という「同じ状態」が続くということ
なので、変化は感じにくいけれども、「それは暮らしを快適で清潔に維持し続けるという作業ができているからなんだ」と、自信にもなります。
「今の暮らし」にあたりまえは一つもなく、スイッチひとつで電気がつくのも、蛇口をひねれば水が出るのも、みんなの「維持」のおかげ。
一見、「変化のないように見える日常」は、そのように “ 保たれているから ” であって、ありがたさが詰まっています。
見えないものを見出すには、意識を向けないと、見えません。
「ありがたさの感覚」をいつも思い出せるように、「快適さ」や「便利さ」の “ 背景に意識を向ける ” ことを、大切に感じています。