どうやったら、視野が広がるのか?
普通に生活しているだけだと、凝り固まった見方はなかなか変えられません。
視野を広げるには、新しいことに挑戦したり、行ったことのない国を旅行したりといろいろありますが、「レトリック」を使うのも効果的だと思いました。
一つのことを別の表現で言い換えるには、発想を変える必要があるからです。
通常の言い方をあえてしないことで、別の角度から見ざるを得ないので、新しい気づきがあります。
それでは、視野を広げるためのコツをレトリックの魅力と併せていくつかご紹介します。
主語を変えるだけで、見方は簡単に変わります!
主語が変わると、同じことを表しているにもかかわらず、違う感覚になるのです。
まず、りんごが地面に落ちたところを想像してみます。
次に、主語を「りんご」「地面」「引力」にそれぞれ変えてみます。
① 「りんご」が、地面に向かって落ちる
② 「地面」が、りんごを引き寄せる
③ 「引力」が、りんごと地面をくっつける
私たちは、つい動くものを主体にして考えてしまうので、「りんご」を主語にして捉えることが多いです。
しかし、宇宙から見たら、地球に向かってりんごが吸い寄せられているように見えます。
これは、「太陽」にも同じことが言えます。
太陽が東から昇るように見えるのは、「太陽」が動いているのではなく、「地球」が動いているから。
たいてい私たちは、何かを主語にして、物事を一つの視点から見ます。
それを主語にしたときは、そう見えているだけであって、別のものを主語にすると、また感じ方は変わります。
感じ方が変わるということは、視野がその分広がったと言えそうです。
ちなみに、ヒンディー語には「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という表現があるそうです。
「私」を主語にする場合と、「あなたへの愛」を主語にする場合では、印象がこんなにも違います。
① 私が、あなたを愛している
② あなたへの愛が、私に留まっている
「あなたへの愛」を主語にすることで、自分のコントロール下にないことが起きているようにも感じつつ、あなたへの愛が私のところに来てくれているという純粋で健気な印象も感じます。
「何」を主語にした視点なのかによって、見方がこんなにも変わるのなら、思い込みを払拭して視野を広げるために『主語を変えてみる』のは、効果的だと感じました。
視点の相違は、個人のあいだにのみあるのではない。ことなる文化圏のあいだには、いわば集団的なものの見かたのずれがある。それぞれの個人も、それぞれの文化も、暗黙のうちに、自分の慣れしたしんでいる視点からのみ、ものを見ようとする。そして、自分の見かたこそ標準的なのだ、と思い込みやすい。
新しい視野を獲得するためにも、また、習慣のわくを超えた相互理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときは、かつてなかったようである。
佐藤信夫『レトリックを少々』
同じことを、別の言葉から連想させる!
この一文から、何を連想するでしょうか?
夏目漱石『倫敦塔』
彼等が舟を捨てて一度び此門を通過するや否や娑婆の太陽は再び彼等を照らさなかった。
「死」という言葉を使っていないにもかかわらず、「死」を連想させています。
「彼等は二度と太陽に照らされることはなかった」ということは、この門をくぐった「彼等」はもう二度と太陽の下(外)に出てこられなかったということになります。
つまり、この門の中へ入ったら、「彼等」は死ぬまで幽閉されるということです。
しかし、この文章は、「彼等」を主語にせずに、「太陽」を主語にして、太陽の目線からそれを表しています。
一つの事象を、別の角度から描写し連想させることで、想像力を使うので、視野も広がります。
一言で終わらさない!
たとえば、家族みんなで談笑しているときに急に会話が途切れて、シーンとなる様子を表すとき、どうするか?
「家族は沈黙した」と書けば、みんなが黙っている様子は伝わります。
しかし、それだけしか伝わりません。
そこで、この情景描写。
声が、突然床に落ちた。落ちたまま、じゅうたんの短い毛にねばって動かなくなる。ストーブだけが、金網の中で小さくピチピチ鳴った。その音は、部屋の中の暑い空気に突きささろうとしては、室内の沈黙に押しもどされてすぐ床に落ちた。誰も、何も言わない。
黒井千次『走る家族』
「沈黙の緊張感」が、ありありと伝わってきます。
よく見てみると、「沈黙」を表現するために、あえて「声」や「ストーブ」の “ 音 ” を主語にしています。
「声」という“ 音 ” は、突然床に落ちて動きません。
かろうじて鳴っていた「ストーブ」の“ 音 ” も、室内の沈黙には勝てずにすぐ床に落ちました。
もちろん、家族の「沈黙」の様子が描かれていますが、あえて “ 音 ” を使った独特の情景描写によって、沈黙の重々しい空気感まであらわされています。
では、今度は「もじゃもじゃ頭」を表現したいときは、どうすればいいのか?
髪の毛は前人未踏のアフリカのジャングルよろしくもじゃもじゃ生え茂り、その一本一本が上に横に斜めに東に西にと勝手気儘な方向に伸び、その上複雑怪奇に絡み合いもつれ合い、本当にライオンの一頭や二頭は潜み隠れていそうな気配だった。
井上ひさし『モッキンポット師の後始末』
どんな「もじゃもじゃ頭」なのかを、これでもかというほどに言葉を並べて、作り上げています。
まずは、アフリカのジャングルのような迫力のある頭であること。
しかも、前人未踏ということで、手つかずの生え茂り方であること。
髪の毛は、上に横に斜めに東に西にと、なんの法則性なく伸びていること。
絡まり方・もつれ方は、複雑怪奇。もはや、ほどくことは不可能な印象。
ライオンが一頭どころか二頭まで潜んでいてもおかしくないほど、「もじゃもじゃの中どうなってるの?」という何があってもおかしくない感が伝わってきます。
一言で終わらせないようにすることで、想像力を使わざるを得ないので、視野は広がります。
日常でもレトリックを楽しむ
日常の中にもレトリックは溢れています。
とくに、歌の歌詞。
高まる愛の中 変わる心情の中
燦然と輝く姿は
まるで水槽の中に 飛び込んで
溶けた絵の具みたいな
イレギュラー
Official髭男dism『I love… 』
透明な水の中に絵の具を垂らすと、不規則に、美しく広がってゆきます。
当然、広がり方は予測できません。
意図していない中、始まる恋も同じ。
無色だった自分の世界に、色鮮やかな色彩が突然飛び込んできて、不規則に美しく日常生活を染めていきます。
なんでもない日常も、レトリックを使って表現を変えるだけで、色づきます。
見慣れた世界が彩り、視野も広がるレトリック。
ぜひ、常日頃から素敵な表現を探して使っていきたいです^^
詩人のことばにより活けられた花。続けて花の名前がゆっくりと声に出され、何もない空間のなかに咲きはじめる。声にされたことばだけで構築された世界は最初頼りなくも感じられたが、その時間に馴染んでくるに従い、生まれたばかりの世界とかすかに触れ合った感触が、身体じゅうを満たしはじめた・・・・・・。
辻山良雄『ことばの生まれる景色』