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素直に甘える心地よさ

シチュエーションごとに、それぞれの自分を演じて分けていることに気づきます。

そして、思います。

いったい、どれが本当の自分なんだろうか?

成長するにつれて素直になるどころかプライドが邪魔をして意地を張ったり、思ってることとは反対のことを言ってしまったりと、素直でいることが難しくなっていきます。

物心つくまえの子供であれば、素直にお母さんに甘えることは簡単だったはずです。

素直に甘えている時間は、目の前の人に自分をさらけだして他者からどう見られるかなんて一切気にしていません。

このように、子供のときはあたりまえだった「素直に甘えられる自分」も、弟や妹ができたときに状況は一変します。

「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」

「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい」

そして、年上の役割として『〇〇でなければならない』という縛りが一つできます。

そして、学校という集団の中に属するようになると、

「友達100人できるかな?」

「友達なんだから、〇〇のはず」

会社という組織に属するようになると、

「弱さを見せてはいけない」

「社会人なら〇〇はできて当然だ」

親になれば、

「親として、○○でなければならない」

「家族はこうあるべきだ」

そうやって、知らず知らずのうちに、縛りを一つずつ自分に巻いていきます。

常に、「○○でなければならない」という縛りにがんじがらめになっています。

この「〇〇像」が、環境に合わせた「それぞれの自分」をつくっています。

  • 家族の中での自分
  • 妻としての自分
  • 職場の中での自分
  • 友達の前での自分
  • お客さんに対応する時の自分
  • タクシーの運転手さんに対しての自分

普段はこれらを上手に使い分けていきます。

その場面ごとによって、自分の「役割」が違うからです。

だけど、ふと思います。

本当の自分は、どれなんだろう?

たしかに、役割ごとに使い分けてはいるけれども、すべて本当の自分です。

そこで、「どの自分が一番心地いいか」を考えてみます。

自分を縛っていた「思い込み」という縄を一つずつ解いていくのです。

〇〇像をつくり上げていた「こうあるべき」という縛りから解放されたときに辿り着くのは、

「素直に甘えられる自分」

これができている時に、誰の目も気にせず、肩に力が入らず、素の自分でいられて、心地いい時間を過ごせていることに気づきます。

〇〇像から解放されると、何も自分を縛るものがないので、「力み」がなく「〇〇でなくていい」という「自分への許し」からくる感覚なのかなと思います。

人間は、誰しもこの「素直さ」が心の真ん中に必ずあります。

素直でないように見えるのは、成長する過程で、自分で巻いていったか、誰かに巻かれた「〇〇という思い込み」に何重にも縛られて、「素直さ」が出てこれなくなっているだけだと思います。

縛りが多くなるほど、素直に甘えることができなくなるのは、身構えているのでそれが「力み」となって無意識に価値観の押し付けや、反論という防御反応として現れたりするからではないでしょうか。

「素直さ」が出てこれないと、

  • 自分の過ちを認めたくないので、素直に「謝る」ことが難しくなります
  • 照れくさくて、両親に「感謝の言葉」を素直に伝えられません
  • 恋人同士や夫婦の間でも、「愛してる」「大好き」という素直な気持ちをなかなか言えません

これらのことが、素直にできたとき、ホッとするような何とも言えない心地よさを感じます。

そして、何よりも大切なのは、「自分に対して素直でいること」です。

誰がなんと言おうと、好きなものは好き。イヤなものはイヤ。感じる気持ちだけは我慢しなくたっていい。強がらなくていい。しっかりもしなくていい。弱さがあってもいい。力む必要はない。そんな自分を自分だけは認めてあげる。

素直でいる間に心地よさを感じるのは、自分を縛っている縄を解いて、解放されているからかもしれません。

もちろん、家族や社会の中での役割を担うときは、素直に甘えてばかりはいられません。

〇〇像という立場や建前も、集団の中で調和するためには大切です。

だけど、一日の中で、子供の時はあたりまえだった「素直に甘えられる自分でいられる時間」は何物にも代えがたい特別な時間だと感じます。