一日の終わりに感じる漠然とした不安は、「自分が決めたこと」を “ していない ” からかもしれません。
多くの時間を、「誰かが決めたこと」に費やしている自分に気づきます。
せっかくの自由な時間でさえ、自分が「本当にしたいこと」をせずに、外部刺激に反応して時間の浪費になってしまっていることも多々あります。
一日の時間の使い方は、大きく分けると
- 「誰かに決められていること」をする時間
- 「自由」な時間
があります。
まずあるのは、学校や会社など、動かせない「すでに決められている時間」。
その合間に、食事や風呂、睡眠、余暇などを自由に割り振っています。
しかし、この一見「自由」な時間も、大きく分けると
- 「無意識の習慣になっている行動」をする時間
- 「外部刺激に反応」している時間
- 「自分で決めたこと」をしている時間
があります。
「無意識の習慣になっている行動」も、大きく分けると
- 続けたい習慣
- やめたい習慣
があります。
たとえば、私の場合は、朝の光を浴びながらの「瞑想の時間」、寝る前の「感謝の時間」、毎日の「水回りの掃除」などは、続けたい習慣です。
一方、やめたい習慣は、「帰宅したらテレビのスイッチをつけて、いったん座る」や「起きたらスマホを見る」などです。
これらをやめたい理由は、「テレビのスイッチをつける」や「スマホを見る」という行動を “ きっかけ ” として、そのあとに「外部刺激に反応する時間」が始まるからです。
この時間は、結局、誰かの意図する方向に流されている時間なので、受動的な「決められている時間」に近いです。
能動的な「自分で決めている時間」とは正反対です。
何も決めないで一日を過ごすと、ほとんどの場合、「無意識の習慣になっている行動」をきっかけに、「外部刺激に反応している時間」が、 大切な自由な時間をどんどん奪っていきます。
「本当はしたい」と思っているような、片づけ、趣味、読書、手紙を書く、リラックスタイムなどは、後回しになっていきます。
そして、 「外部刺激に反応する時間」 が一日の自由な時間の大半を埋め尽くして、「本当はしたいこと」をする時間はなくなってしまいます。
場合によっては、睡眠時間を削ってまでも、スマホを見てしまっていることもあります。
やっかいなのは、自由な時間を奪われていることに、自分では気づきづらいこと。
なぜなら、自分が「その行動をすることを選んだ」ような “ 錯覚 ” をするからです。
その錯覚によって、「受動的な時間」を過ごしているにもかかわらず、まるで自分が決めてそうしているかのように思い込んでしまうのです。
それなのに、「自分はなんて意志力が弱いんだ」など、不必要な自己嫌悪に陥りかねません。
また、このような毎日が続いていくと、“ 得体の知れない漠然とした不安 ” にも襲われます。
もちろん、自己コントロール感も、感じられません。
それは、「自分がしたいこと」を “ していない ” から。
「自分で決めたこと」を “ していない ” からです。
一日の時間の使い方を書き出してみて、
- 誰かに決められたことをしている時間
- 外部刺激に反応している時間
- 自分が決めたことをしている時間
の3つに分類して、“ 今している行動 ” がどれに当てはまるのかを確認してみると、「自分で決めたことをしている時間」が1日の中にどれだけあるかが分かります。
「本当はしたい!」と思っていることをする時間、“ 自分の好きな時間 ” を大切にしていきたいと感じています。