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「自分が決める」という「能力」をちゃんと使っていく。能力は使わないと使えなくなる

子供の頃は、何でも親が決めて、親が選んでいきます。

もちろん、幼少期は判断能力がないので、親が子供の舵をとって当然です。

しかし、親が決めてくれる状態に慣れてしまうと、自分の判断では決められなくなり、志望校、就職先、下手すると結婚相手まで、親の判断に依存してしまいかねません。

そのまま社会人になると、誰かに決めてもらわないと、自分の判断に自信がもてなくなって、

  • 「どうすればいいですか?」
  • 「何をすればいいですか?」

と、誰かに指示を仰がないと動けなくなったり、

  • みんなが「いい」と言っていないと不安
  • 「何が食べたい?」と聞かれても、いくつか選択肢を提示してくれないと決められないので「なんでもいい」

と、なってしまうことも多々あります。

「自分で決めることができる」という「自由がある」ことは、本当にありがたいことです。

ところが、せっかくこの自由があるにもかかわらず、気づかないうちに選択させられていて、そのことに気づかないこともあります。

  • 「あなたへのおすすめ」に誘われてループに迷い込んでいるとき
  • ニュースなどで、ほんの数人のインタビューを切り取って伝えていることが、まるでみんながそうであるかのように捉えてしまうとき
  • 広告や街なかの看板などでを見て、急に食べたくなるとき

など、目の前に提示されたもので、自分の選択の方向を導かれていたとしても、これらは自分で選んだと思いがちです。

とくに現代では、テレビ、スマホ、町中の看板によって、次々と選択肢が提示されるので、

  1.  選択肢を提示されてから
  2.  選ぶ

という行動パターンが染み付いています。

このように、

  1.  “ まず ” 選択肢を提示されて
  2.  与えられた選択肢の中から一番いいと思うものを選ぶ

という行動が繰り返されると、与えられる選択肢に大きく左右されます。

そして、たとえ偏った選択肢を提示され続けて誘導されていても気づけません。

制限された選択肢の中から選ばされていたとしても、まるで「自分で自由に選んでいる」かのように錯覚するからです。

もちろん、「あなたへのおすすめ」や「ニュース」や「広告」によって、知るべき情報を知れたり、教えてくれて良かったと思える情報もたくさんあるので、選択肢をあらかじめ提示してくれることは、とても助かっています。ありがとうございます。

しかし、受け身の姿勢で、見せられるものだけ見ていると、自分に入ってくる情報がどんどん偏っていってしまいます。

私は、入ってくる情報に流されやすく、つい耳に入ってくる情報や、誰かの意見や、目の前に提示されたものの影響を受けてしまい、知らず知らずのうちに思い込みが生まれたりしています。

自分で考えぬいたはずの判断でさえもブレて、恐怖が押し寄せてきて、不安になっている自分に気づくこともあります。

そのたびに、原点に立ち返るようにします。

  • 自分は、どこに向かっているのか?
  • 何を望んでいるのか?
  • 自分にとって本当に必要な情報は、何か?

と問いかけます。

そして、“ 何を自分にインプットするか ” を、自分で決めるのです。

インプットするのは、自分の望む未来に向かうために必要な情報です。

情報過多と言われる現代において、私たちは、テレビ、ラジオ、新聞、ネット、SNS、本、雑誌、チラシ、看板、世間話などの情報の洪水に四六時中さらされて、煽られています。

情報は、絶えず何かしらの媒体から、自分の中に入ってきます。

むやみに何でもかんでも自分の中に入ってくるのを許可するのではなく、

  1.  インプットしたいときに
  2.  インプットしたいものを
  3.  自分で選んでから
  4.  入れる

というように、自分に取り入れる情報を、自分の意思で決めていく。

そのためには、まず「自分の望む未来とは、どんな状態か」を明確にしておくことが大事です。

そうすることで、たとえ自分の周りで氾濫する情報に影響を受けて、方向がズレたとしても、そのまま流されないで済みます。

自分で軌道修正して、また望む方向へ視線を向けて、進んでいくことができます。

人類の歴史を見渡すと、意に反して強制的に何かをさせられる状態が存在します。

そこには、職業の選択、1日の時間をどう使うか、どこに住むかなどが、誰かに決められているので、自分の意思での選択の余地がなく、自由はありません。

私たちは、見るもの、聞くもの、読むもの、食べるもの、着るもの、住む場所、仕事、思想、買うもの、感じるものなど、「自分で」選んで、「自分で」決めていけます。

自分で決めることができる「自由」は、あたりまえではありません。

この「自由」は、先人たちが築き上げてきた血と涙の結晶であることを決して忘れないで、大切にしていきたいと感じています。