「本当に自分がやりたいこと」だったにもかかわらず、「誰かの期待」を感じた瞬間に、自分の意識が「期待に応えるためにこうしなきゃ!」に向いてしまい、「本当に自分がやりたいこと」から離れていってしまうケースがあります。
その場合は、「したいからする!」だったはずの気持ちは、承認欲求という、他人から認めてもらうことを「期待」して、「誰かの承認を求める」という気持ちに変わっています。
人間の「気持ち」って不思議です。
「気持ち」という「暴れん坊」は、自分が主導権を握って、手綱を引いていないと、簡単に揺れ動いてしまいます。
手綱を引いている感覚が、自己コントロール感です。
暴れん坊がどこかへ行ってしまって、見失ってしまった状態が、“ 自分を見失っている状態 ” です。
つまり、手綱から手を放してしまっているので、コントロール不能の状態です。
いずれにしても、“ 自分の「意識の矛先」がどこに向いているのか ” を、常に「確認する作業」をすることで、
- 自分の「したい!」という本当の気持ちに向いているのか
- 認められたいという、外への期待に向いているのか
に、気づけます。
「選択」をするときに、この確認作業をすることで、主導権を握っていられます。
主導権を握ることを忘れてしまうと、「誰かの期待」や「世間の一般常識」を、無意識に感じ取って、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と、自分を見失っていくことに気づけません。
たとえば、
- 習い事の選択
- 高校や大学はどこにするのか
- どの学部にするのか
- 就職先の選択
- 結婚するのかしないのか
- 出産の予定
- マイホームを持つかどうか
- 近所付き合い
- 舅姑からの期待
- 孫はいつ?
- 世間体
- ママ友との付き合い
- 介護問題について
- 住む場所の選択
- 転職するのかしないのか
- 上司や同僚からの飲み会への誘い
これらの中には、「誰かからの期待」を、無意識に背負ってしまっている場合が多いです。
とくに、進路や就職先などは、本当は自分のしたいことがあったけど、親の期待に応えることを優先して決めた人も多いかもしれません。
「自分の本当にしたいことが他にあったけど、みんなが喜ぶのはこっちの選択だから・・・」は、自分の気持ちをないがしろにしています。
たとえ、「自分はこうしたい!」と伝えても、「こうしたほうがいいよ?あなたのために言ってるのよ?」と言われたら、「そうなのか・・・」と思い込んでしまいます。
期待という「縄」が増えれば増えるほど、自分を縛り続けていくので、苦しくなります。
あとから振り返ったときに、「自分が本当にしたいこと」だったならいいのですが、「そうすることを期待されている」と敏感に察してしまい、その期待に応えることが「自分の喜び」だと錯覚していることもあるかもしれません。
怖いなと思ったのは、逆に「これらの期待を、自分が誰かにしてしまっていないか?」と考えたときです。
自分を縛ってきた「期待の言葉」を、無意識に、誰かに発しているかもしれない。
それが、相手にとっての「励み」になっているなら嬉しいですが、それは本人しか分かりません。
価値観は、人それぞれ、人の数ほどあるので、決めつけはできません。
期待の言葉が、『励み』になるのか『重み』になるのか。
分かるのは、「本人の気持ちだけ」です。
「自分の本心」と向き合うのと同じくらい、「相手の本心」にも意識的に向き合うことも、大切だと感じます。
自分の価値観で勝手に決めつけずに、相手の心の声にも耳を澄ませていく。
- しぐさや表情、声のトーンに意識を向けて、気持ちを感じ取る
- 認識違いを防ぐために、質問する
- 決して、否定したり、途中でさえぎったりせずに、最後まで話を聞く
つまり、“ 傾聴する ” ことで、相手の本心に、真摯に向き合うことができます。
そうすることで、相手からの信頼感も得られます。
相手に対して、自分の思い通りに動いてほしいがために「期待の言葉」をかけるのは、相手の行動を縛り付けてしまう可能性があることにも、気をつけていく。
そして、自分に対しても、誰かの「期待」を感じた瞬間に、「自分の気持ち」を確認する作業を怠らずにいることで、「自分の人生を生きる」を大切にしていきたいと感じています。